母に胸を包丁で突かれた

私には、家庭内でトラウマになっている出来事がいくつかあります。

今でもふとした時に鮮明に思い出されて、その度に恐怖感、怒り、悲しみの感情が湧いてきます。

そうしたトラウマから、私は自分に自信が持てず、社会の中での生きずらさを抱えています。


これは母のうつ病が一番ひどかった時期の出来事で、私が浪人していた時でした。

私と母の二人暮らしで、母はその時期には毎日調子が悪そうでした。そしてほぼ毎日、ご飯をどうするかで口論していました。

普段は母が食料を買ってきて料理をして私に食べさせてくれていました。

しかし体調が悪く買いにも行けないので、暗に私に食料を買ってきて欲しかったのだと思います。いつもそんなニュアンスで私に、ご飯どうする?と話しかけてきていました。

しかし私は母に対してなぜか優しくなれず、食料を母のために買ってくるなんて絶対に嫌だ、とまで思っており、ご飯どうする?という問いかけに対して、何でもいい、などと言ってほとんど取り合いませんでした。

その結果攻撃的になった母は私に言葉で攻撃をし始め、私は言い返すようになり、口論が始まっていました。

その口論の中で激情的になった母は包丁を持ち出し、私に向けて”殺すぞ!”と怒鳴りながら威嚇し始めました。

これもおかしな話ですが母がキレると包丁を持ち出すと言うのは私が小さい頃からで、本当に刺されたことは一度もありませんでした。

と言うこともあって少しヒリつきながらも、頭に血が上った私は”殺せるもんなら殺してみろ”と火に油を注いでしまい、とうとうブチギレた母は私の右胸あたりを包丁でドツきました。

幸いにも怪我はありませんでしたが、服の下に軽くアザができるくらいで、もう少し強くドツかれていたら刺さっていたと思います。

そう考えると本当に恐ろしくて、とうとうやりやがったこのババア、ついには息子を包丁で刺すなんてどう言うことかわかってるのか?とその時は思っていました。


なぜ私は母に優しくなれなかったのか

私がなぜそう思っていたのかは、明確にはわかりません。母は私のためにそれまで働いてお小遣いを渡してくれて、ご飯も食べさせてくれたりなど尽くしてくれていたと思いますし、そうやって私を育ててくれてきたことには、素直に感謝しています。普通なら弱っている母を見て子供である私は、助けたいと思って進んで食料を買ってくると思います。

でもなぜそれができなかったのか。

一つ思い浮かぶとすれば、母は私の進学先の希望に対して頭ごなしに否定し、私は悲しみと怒りと無力感でやるせ無い思いをしていたことでした。

理由はわかっていました。私の希望は関東の大学に行くことでしたが、親にお金がなくて、私を関東で一人暮らしさせるお金は出せないからでした。でも私が悲しかったのは自分の希望が叶わなかったからではなく、母に自分の希望を否定されたことでした。

お金がなくて、現実的に希望が叶わないのは仕方のないことだとは自分でもすぐに理解できます。

しかし、母は私の関東に行きたい、と言う希望に対して一欠片も肯定せず、なぜ行きたいのか、何がやりたいのか、どうやってやるのか、私が答えられなくなるまで詰問して、最初から最後まで否定でした。

私は子供として、一番近い親だった母に全否定され、やり場のない怒りと悲しみにどうしようもなくなっていました。

何度か母に進路について相談したことがありましたが、その都度全否定を食らって、私は言い返してしまい、不毛な口論になりました。

口論の中では派生して母は私の人格を否定し始め、汚い言葉と大声でコテンパンに殴りつけてくるので、その鳴り止まない怒声の中、私は部屋に閉じ籠り布団に潜って大音量のイヤホンで耳に蓋をして、涙を堪えるしかありませんでした。

これをうつ病のせいだから、と前向きに解釈するには私はまだ若すぎましたし、今でもそう思えていません。むしろこれは母の本来の性質だと今では思っています。

こうして言葉にしながら初めて分かったのですが、母に肯定してもらえなかったことがおそらく私の心にずっと引っかかり、弱った母に優しくできなかったのではないかと思います。


”私は要らない子なのだ”⇨”私はダメだ”と言う自己否定につながった

そんな中で母に包丁で突かれ、その出来事がそれ以降も私の五感にこびりつき、そのトラウマを思い出すたび、母にとって私は本当にいらない子なんだと思い、そこから自分に自信を失い、自分はダメだと言う自己否定が芽生え初めていたように思います。


トラウマを消す

私はもうこのトラウマに悩まされたくはありません。

生きづらさを抱える中で私は”嫌われる勇気”、”幸せになる勇気”という本に出会い、アドラー心理学の知識を得ました。

それをこの記事の中で実践したいと思います。

私は”母に包丁で突かれた”⇨”私は要らない子なのだ”、”私に価値はない”⇨”生きづらい”

という流れでトラウマを抱えていますが、アドラー心理学ではトラウマは存在しないと言い切っています。

トラウマの考え方は、過去に原因があって、その結果現在の私はこうなってしまっているというものですが、こうした原因論で今の私を決定づけてしまうと、過去にある原因が変えられないことから、現在の私はもう変わることができないことになってしまいます。

そこで原因論の考え方をやめ、”目的論”を用いて解釈し直します。

現在の私が”嫌われたくない”、”否定されたくない”,"傷つきたくない"という目的を叶えるために過去の事実を理由にして、”自信がないから”というガードを張ることで対人関係から距離を取ったり、何かにつけ勇気を出して一歩踏み出すことができないなどの”生きずらさ”を抱え、目的を叶えているという解釈になります。

この”目的論”は一見かなり無慈悲で冷徹な根性論に聞こえますが、本を読んでいて、私が前に進むには必要なことだ、と腑に落ちるようになりました。


課題はトラウマではなく”嫌われること”、”否定されること”への勇気を取り戻すこと

ここで、問題はトラウマがあったことではなく、嫌われる勇気を持つことに代わっていきます。

これ以上は自分自身まだまだこれからな部分でもあるので、こうした考え方もあるのだということを、トラウマで苦しんでいる方に少しでも知っていただけたらと思います。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

ここに言語化することによって、自己理解が深まった気がしますし、何より少し肩の荷を下ろせたような気がします。

根性出せとかでも全然いいので忌憚なき感想をコメントいただけたら幸いです。

それではまた。

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